Old Dancer's BLOG
ここはてりぃが、趣味の共通する方々との得がたいつながりのために、自分の趣味に関係する諸々のことを、壊れながら書きつづるブログです。
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Kanon 第10話「冬の花火」
 クライマックスはいつだって唐突だ……。


 ………いやいやいや。


 さすがにこれは辛いっすなぁ。3話ほど、真琴がほぼ放っぽっておかれたというのがその大きな要因でもあるのですが、今話冒頭、真琴シナリオのキーアイテムとも言える鈴の購入も突然だし、その夜にいきなり症状が出始めるのも、その後間髪入れずに高熱で倒れちゃうのも……。みんな、みぃんな短すぎる尺が悪いんや……。


 つーわけで、いきなり感満載で突っ走っちゃった東映版Kanon・真琴編のレビューでございます。
 



 性急な進行によって、無理がかかるところはあちこちに見えましたが…。



 その最たるものは、美汐がらみ、でしょうなぁ。



 美汐と祐一の関係は、ものすごく微妙なバランスの上に立っているんですよね。だって、彼女が告げる真実は、彼女との関係が確立される前に聞いちゃったら、全部デンパですもん。


 そのデンパさんの言っていることを、すごく無理のあるペースで信じるようになっていく祐一は、結果として「救急車を呼ばねばいけないほど熱のある少女を無理矢理雪の野原に連れ出そう」という行動に出るのですが、これは、なぁ?前日まで普通に人間として接してきて、熱を出した理由の説明も何にもしないでいて、前の晩には家族らしい団らんとかプリクラとか花火とかやってんのに、いきなり「こいつ、人間じゃないんだ。昔、オレが拾った狐の生まれ変わり…」とか言われても、なぁ?そんな切羽詰まった場で、そんなにデンパに聞こえることを言っても、なぁ?そりゃ秋子さんに名雪さんも、必死で祐一を止め…あれっ?止めないの?!(汗)


 好意的に見るなら、「原作の中にあるセリフやエピソードを、なるべく多く残したい」と願って、この脚本は編まれたのかもしれません。ですが、原作のモチーフをたくさん持ってくれば来るほど、大事な部分にかけられる時間が減っていき、「早回し」の影響があちこちに出てしまう、という悪循環になってしまったように見えます。せめて、2話ぐらいかけられたなら、全然印象が違ったように思えるんですが…戦略ミス、でしょうかね、これは。


 直前の栞編にしろ、もう一つ前の舞編にしろ、落とさざるを得なかったモチーフは数多くあったはずです。だけど、「ここを死守しよう」という制作陣が意図したであろうポイントは、相応に残っていた気がするんですね。そして面白いことに、この二つのエピソードで死守された部分は…必ずしも、原作通りの描き方ではなく、非常にオリジナリティの強い舵取りがなされているのですよ。栞編では「姉・香織との対峙」をピークに持ってきているのがそうですし、舞編では「親友・佐祐里が最後に舞を救う」というのがそうですし…。「ここに向けて収束させよう」という意図がはっきりしていて、だから道中にも迷いがない、という結果になって出ているんではないでしょうか?

 東映版の真琴編は、「これぞ」というべきポイントが、私にはとてもわかりづらく思えました。原作から引用してきたパーツを、ダイジェスト的に散りばめられた作りにしか見えなかったんです。何と言ったらいいんでしょうかね、「有機的な連関を深めながら、各パーツが一本のストーリーに収斂していく様」は、私にはちょっと感じ取ることができずに終わりました。どれも聞き覚えのあるセリフや場面だったんですけどね。ううん、こんなんですいません。でも、見ていた私もすこぶる残念でした、はい。


~~~


 もう一つ。これは、真琴編に限った話ではなくて、東映版全体を通じての話ですが。というよりも、Kanonそのものの解釈論になるのかもしれませんが。


 元々。原作たるゲーム版のKanonは、マルチシナリオのアドベンチャーゲームです。一口に「マルチシナリオ」と言っても色々ありますが、Kanonのマルチシナリオは、私がよく「開放系」と呼ぶタイプのものです。つまり、個々のシナリオの繋がり方がとても緩くて、一本に収束しづらいんですよ。同じKEYの作品であるAIR~あえて呼ぶなら「閉鎖系」でしょうかね~の持つ構造とは、非常に対照的です。AIRは最終的に「Summer編」に関わる物語に全てのストーリーが収斂しますが、Kanonは違うんですね。主人公・祐一が全てのストーリーに関わっているというだけで、舞は舞、栞は栞、真琴は真琴で、全く独立したそれぞれの問題を抱えている。その解決に際して必要となるものさえ、下手をすると完全に独立したまま、ストーリーが終わりかねないような、そんな物語なんです。

 ただ一つ、「奇跡」というキーワードのみで、緩く緩く繋がった、いくつかの物語。それが、Kanon。


 そして、この東映版は……恐らく、そういったKanonの基本構造に手を付けることなく、言わば「そのままで」のアニメ化を目指したように思えるんです。その結果として、舞編のクライマックスである第8話、栞編のクライマックスである第9話、そして真琴編のクライマックスである第10話は…ほぼ全く相互作用しないまま、独立性の非常に強い話として個々に立つ、そういう印象が強いものに仕上がっているんですね。

 それがOK、という方は、この東映版にOKと言える素養を一つお持ちなのだと思います。

 それがNG、という方は、この東映版にひょっとしたら向いていない方かも知れません。

 ある意味、この開放系の作りは、原作そのままなんです。一方、京アニ版は「元々開放系だった原作を、完全に一つの輪にして繋げた」という視点では、大きく原作を改変しています。この2シリーズはそれぞれが、「原作通り」にこだわっている部分と「原作から改変している部分」とを持ち合わせていますが、その取捨選択の基本方針がまるで異なるんです。

 作画が戦力の決定的な差ではないのだとしても、制作の根本の方向性に大きな違いがある以上は、東映版と京アニ版の二つに対して好き嫌いが分かれるのは、きっとやむないことなのでしょう。個人的には、好き嫌いのレベルで留まってしまうのではレビューまで書く意味がない、自分で選択して見る以上は、対象を好きにならないまでも、作品が意図した部分を理解できる程度には眼を鍛えておきたい、てなことを考えてしまうのですが…。やっぱりそういう意味でもこの真琴編、私は悔いが残っていますよ。せめてもう少し、肉薄できなかったかな、という、私自身に対しての悔いですね。


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 残すはあと3話。名雪編とあゆ編、ですね。結局、表裏と言うべきか陰陽と言うべきか、この二人のシナリオは個々に語って終われない、そういうシナリオなんでしょう。そうだよなぁ、舞や栞や真琴は自分以外と「1対他」の関係だけど、名雪とあゆだけは相互に「1対1」だもんよなぁ。そういう意味じゃ、独立した「名雪編」というシナリオのみを紡ぐ以外の制作方針では、名雪は絶対にあゆとセットで書かれるでしょうし、Kanonが奇跡の物語である以上は絶対にあゆエンドで終わるんだよなぁ。…名雪さんが「ふぐぅ」と言われる所以なのでありましょうが…。

 とりあえず、こんなところで。
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