Old Dancer's BLOG
ここはてりぃが、趣味の共通する方々との得がたいつながりのために、自分の趣味に関係する諸々のことを、壊れながら書きつづるブログです。
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見えるもの、見えないもの
 京都アニメーションに関して。ちょっと話題になったようですので、私も少々釣られてみましょうか。つーても、私が言いたいことの半分ぐらいは、りとまてのなしおさんが的確に言い尽していらっしゃるのですけど。


京都アニメーションのアニメは見ない…と言う(WebLab.otaさん)

こういった反応が出てくるのが……(めもり~り~くさん)

「原作に忠実なら、原作を読めばいい」に対して(りとまてさん)


 上記は私が目にしたものだけを拾っていますけれど、他にもこの件に関して色々なご意見があるものと思います。どの意見にもその人なりの主張がある、ということを前提として、私も私なりの意見というものを、つらつらと書き記してみることにします。
 
 京都アニメーションに対しての「所詮、原作と同じじゃないか」「作家性がない」というような、それこそ熱心なファンに読まれたら「怒髪天を突く勢いで小一時間問い詰められそう」なセンセーショナルな意見(笑)は、実は昨日今日に言われ始めたことではありません。かつてAIR放映の後、2005年当時には既に言われていたことであり、私自身も2ちゃんねるの劇場版AIRスレや各種のアンチ京アニスレでよく目にしたものです。極論すれば「原作と同じ」であることは原作の単なる受け売りであり、新たな何かを感じられないことは「作家性がない」として断じられること、らしいんですね。私が読んだスレでは明確にそこまでの言葉に換言されてはいなかったと思いますが、突き詰めればそういうことなんだろうな、と私は感じました。

 前者に対しては、既に「どこが原作と同じなんだ、一体どこを見てるんだ」とか、「異なるメディアで『原作と同じ』に見せることの凄さを理解していない」などの反論がありますし、私が考えることもそれらと大きく重なりますので捨象して。今回は「作家性がない」ということについて触れてみましょうか。


~~~


 まず、「作家性」とは一体なんでしょうか?


 これについては、ググってみたところいきなりそのものズバリの表現を見つけたので引用させていただきましょう。人気作家・森博嗣さんのブログであるMORI LOG ACADEMYの記事中で、これまた人気作家の清涼院流水さんが以下のように書かれています。

 森博嗣作品がワン・アンド・オンリィの雰囲気を持っているのは、森先生ご自身がオンリィワンのキャラクタだからでしょう。作家性とは、あるひとりの作家と、ほかの作家とのズレから生じます。ズレこそが作家性なのです。


 さすが物書きのプロ、とても適確ですね。この一文を見つけた瞬間、唸ってしまいましたもの。私如きがこれ以上付け加えることも何もない、という感じなのですが、それでは話が進みませんので(^^;、蛇足ながらも解説を加えつつ、論旨を展開していきますね。

 作家にとって「ズレこそが作家性」ということは、「他の作家にはない、その作家の特徴」こそが作家性である、と言い換えることが出来るでしょう。引用元の記事では、私人としての森博嗣さんが独特の個性をお持ちのこと、それが彼の「社会性」であること、それはすなわち「『自分』を強く持っている」ことに他ならないことなどが挙げられています。その人が他の人と異なるような、私生活での癖や習慣、物の考え方。そうしたものが、創作にあたっては独自のストーリー、独自の文体、独自の登場人物などに反映されてくるのですね。熱心なファンになると恐らく、作品のあちこちから「人間・森博嗣」が滲み出して見えるような、そういう心境になるのではないでしょうか。そこに、ファンは「森博嗣の作家性」を感じるのですね。

 さて。それでは今回話題になっている京都アニメーションの作品についてはどうでしょうか。一番最初に挙げたリンク先には、こんな一文があります。

良くも悪くも原作に忠実,今放送しているCLANNADにしても『麻枝准』という作家性は感じるし,石原監督の作品への深い愛や作品を真面目に作っている姿勢は覗えるが,彼自信の考え方や作家性は一切見えてこない.
(誤字含め原文ママ)


 一見、その通り、という気も致します。だけど…これ、考えようによっては、「その通り」どころか「当たり前」のことなんですよね。石原監督自身がCLANNADに先立つKANONやAIRでも公言している通り、如何に原作ファンに喜んでもらうか、どうやって原作と同じ雰囲気の物を視聴者に提供できるか、というのが彼らの制作の基本姿勢です。これすなわち、「自分の考え方を押し殺してでも、原作に生じている作家性を生かし、前面に出していく」ということなのではないでしょうか。もし京アニ版のAIRやKANONやCLANNADに、「石原立也の作家性」ではない、「麻枝准の作家性」が感じられるとしたら、それは制作の目的を十分に果たしているということになります。つーか、フツー出せませんよ?自分自身じゃない、ヒト様の作家性なんて。例え原作を書いた本人に脚本を書いてもらったって、最終形は別モノになっちゃうのが創作なんだから。…っとっと、話が逸れました。

 「原作の作家性の再現を目指しました」という作品に対して、「原作通りじゃないか」と文句を言うのは、ちょっとおかしいんですよね。そういう人は、見てから文句を言うぐらいならば、多分見ない方が良いのです。「カンバンに偽りあり!」と怒るのは正当な批難ですが、「カンバン通りじゃないか!」と怒るのは変ですよね。つーか、カンバン読めって。というわけで、原作で満足しきっていて、アニメ化に対しては原作者以外の「作家性」を期待する人が、「原作の作家性の再現」を目論んでいる作品、「原作の作家性」しか見出せないと感じる作品を見ないのは、多分、賢明な判断なのです。

 …あれっ。てりぃ、やっぱり熱でもあるんじゃないか?よりによってこんなことを肯定しちゃったぞ?と思ったそこの貴方。ご安心下さい、この記事はまだ半分以下です。(^^;;;


~~~


 それでは。京都アニメーションの作品には、「作家性」なるものは無いのか。


 …んなわけないじゃないですか(笑)。ある人にとって「見えない」ことと、そもそも「存在しない」ことはイコールじゃありませんもん。例えどんなに「原作らしさ」を再現したCLANNADのような作品であっても、そこに「京アニらしさ」は厳然とあります。その「京アニらしさ」こそが彼らの作家性なんじゃないですかね。前述のりとまてさんとかウチとか、その他たくさんの京アニ大好きなブロガーさんたちは、皆その「京アニらしさ」を如何にして掘り出そうかと、アニメにかじりついているわけなんですけども。原作を知っていても、そこが楽しくて毎回見ているわけなんですけども。違いますかね?

 「原作の雰囲気」を作り上げる目的のために、恐らく彼らが「自分の主義主張」などをあまり出そうとしていないことは先に書いた通りです。ですが、何も「自分の主義主張」を出すことだけが作家性なのではありません。「作家性」=「メッセージ性」ではないんですよ。これも先に引用した通り、作家性とは他とのズレです。京アニが京アニらしいと感じる、他のアニメ制作会社とのズレです。それがゼロってことは、普通に考えてもあり得ません。

 例えば、想像してみて下さい。ハルヒを、KANONを、CLANNADを、貴方が思う他の「優れた技術を持つアニメ会社」がもし作ったとしたら。それも、京アニと同じような制作方針で作ったとしたら。その成果物は、果たして京アニの作った物と同じような印象の作品になると思いますか?多分、違うものになりますよね?全体的な構成の差、エピソードごとの尺の割き方、印象的な演出を用いる場所の違い、キャラクターデザイン、声優さんに要求する演技の幅、音楽の使い方、SEの用い方、CGのはめ込み方、背景の色合い、ショットごとのアングル、エトセトラ、エトセトラ…。そこに、各社の「個性」は間違いなく見えているはずです。

 仮に。もし京アニが完全に没個性なアニメを作る会社で、しかし細部の作り込みは同じ程度に丁寧(崩壊していないという意味で)であったとしたら、どうなっていたでしょうか。私は、現在ほど視聴者の支持を得られていないのではないか、という風に考えます。京アニ作品でパッと見にわかるのが「作画がスゴイ」「原作に忠実」という二点であることは否定しませんが、突き詰めていくとその中には、京アニらしい個性が光る数々のカット、演出、シナリオ回しなどが見えてきます。そこには、いわゆる「主義主張」「メッセージ」とは別の、彼らの個性・作家性が存在します。

 特異な個性、突き抜けた主義主張を核として作られる作品の良さ、というものも間違いなくあります。それは、多分、強烈な作家性を感じさせてくれる物なのでしょう。一方、京都アニメーションのように、丁寧な細部の作り込みや雰囲気の再現、技術の効果的な活用を武器にした作品の良さ、というものも、また間違いなくあるのです。そこには、一見強烈な作家性は感じないかも知れませんが、「ナンか他と違う」「何故違うんだろう」と思った人が、細かく掘り下げると見えてくる「個性」や緩やかな「作家性」があると思うのです。

 それに、もう一点付け加えるならば。…本当に彼ら独自の「メッセージ性」はゼロ、なんでしょうかね?例えばKanon 第23話「茜色の終曲~finale~」(スラスラ出てきてしまう自分がいじらしいw)のラストシーンにおいて、原作名雪シナリオのクライマックスと全く同じ構図を用いたあのシーンが、原作と全く同じメッセージしか持たないと?うーん。うううーん。まあ、それが見えないという人とそのことについて争っても、詮無きことなのかも知れませんが、あのシーンで「これは原作を上回る強さを持った『最強の名雪』だ」と思った私には、原作と同じメッセージとは到底思えなかったんですね。

 無論、それはKEY作品の持つメッセージ色と可能な限り親和性を高めた物に昇華されて出されていますから、そこに視聴者は「KEY作品としての個性」の方を強く感じてしまうのかも知れませんが…これは実はものすごいワザなんじゃないのかしら。原作に忠実なものを目指して作り、アニメというフォーマットに倒す際に必要となる調整の中で、「KEYらしさを拡張」したかのような形で、原作になかったプラスアルファのメッセージをさりげなく付加している、って…。それが見えてないなんて、何て勿体ない!とか、私などは思ってしまうわけです。でも、そう思っていくら言葉を尽くそうとも、やはり人によって「見えない」ということはあるんですね。


~~~


 というわけで、ようやくこの記事の本論に入りたいと思います。


 同じものを見ていても、実際にその人が「見ている」と感じるものには、実はものすごい差があります。私が「見えている」と思うものが、必ず万人に「見える」とは限らないんですね。逆に、他の人が「見える」と主張するものであっても、私にはどう頑張っても「見えない」ということもあるんです。

 この記事の最初の方で、私がAIR放映の後に2ちゃんねるの劇場版AIRスレや各種のアンチ京アニスレを読んだことについて書きましたが、何故そんなところを見に行っていたと思います?荒らすため?粘着して揚げ足を取るため?いやいや、そんな不毛なことに時間は割けません。それは、一つには当時行っていたアンケートの反応収集という目的もあったのですが、もう一つには、「彼らが何を感じているのかを知りたい」という欲求があったのです。

 劇場版AIRを見た直後こそ、こりゃヒドイと言って記事を書き散らした私でしたが…その後、色々な意見を目にしていくと、何だか様子がおかしいな、と気付いたんですよ。劇場版AIRを面白い、感動した、と言っている人がいて、その数が決して少なくない。自分がBS-i版に100点、劇場版に30点みたいな点数を付けるところが、人によっては正反対の点数を付けている。何故だかわからないけれども、そこには、「何か」があるんじゃないか?自分には気付けていない「何か」があって、作品を素直に楽しむ機会を逸してしまっているのではないか?そう思ったんです。

 かなりしばらく~二、三ヶ月もいたでしょうか、それらのスレは常時読んでおりました。そのほとんどは「ファンとアンチ」の不毛なやりとりでしたが…それでも時折、漏れてくるんですよね。「ここが魅力だ」という主張が。例えば、出崎監督の作家性に惹かれた、という意見あり。光の演出が素晴らしかった、という意見あり。あの、登場人物たちの「行き場の無さ」の突き付け方に感じ入った、という意見あり。その閉塞感に原作らしさを感じた、という意見までありました。本当に、自分が思いもしなかった意見が、色々と存在することを知ったのです。

 そういう人たちが見ているものと同じものが、自分にも一部分でいいから見えないだろうか、と考えたこともあります。ですが、結果は残念ながら「やはり自分には見えない」ということに終わりました。「見たい」と思って何度見直しても、やはり「見えない」んですね。個人ごとに異なる好みの問題、それぞれ生きてきたバックボーンの違いなどがある以上、これはもうしょうがないのだなぁ、と寂しく思いました。ただ…その作業がムダだったわけではないんです。例えば劇場版AIRはそれまで私の中では「単に出来の悪い作品」でしかありませんでしたが、「多くの人に手放しでは薦められないが、熱心なファンも一部にいる作品」という認識に変わりましたから。先日公開になった劇場版CLANNADを、極端な悪印象なしにそこそこ楽しんでこれたのも、その経験があったからだと思っています。

 「自分とは違う世界が見えている人が、間違いなくいる」という認識は、自分の意識そのものを変えました。感想の書き方も、大きく変わったと思います。つまらないと思ったものに対しても、なるべく「自分にとっては残念だった」という書き方を心がけたり。絶賛するものに対しても、自分の主観であることをなるべく明記するようにして。その分、バッサリと切り捨てるような論調は減りましたので、ソーカイ感を求める向きには不評なのかもしれませんけどね。



 私の意見を全部認めて欲しい、とは思いません。ですが、出来れば「自分とは違うものが見えている人がいる」ということに気付いてもらいたい、とは願っています。あなたが「ない」と感じている作家性を、他の誰かはあるように感じているかもしれません。あなたが「ある」と感じている魅力を、他の誰かは理解してくれないかもしれません。そういう認識をスタートにすれば、簡単に「作家性が無い」とか「魅力が無い」なんて、誰も断じられないはずなのです。

 あるものが「見えている」「見えてない」ということは、何らかの優劣とは無関係なはずですから、見えないことに劣等感を感じる必要もありませんし、「見えない以上は存在しないはずだ」と強弁する必要もありません。ただ「自分には見えないものがある」と認識するだけで、随分と自分の在り様は変わりますよ?私自身が経験者として保証します。

 甚だしく長い拙文に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。あなたにこれからも、素敵な作品との出会いがありますように。
楽しんで頂けましたらWEB拍手をお願いします。
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コメント
この記事へのコメント
オリジナルストーリー書けば良いってものじゃない
>原作に忠実なら、原作を読めばいい
違う違う。原作読むだけでいいのは「原作に忠実」な作品じゃなく、「原作そのまんま」な作品だよ。
日本語って難しいですね(笑)

京アニはあくまで忠実なだけで、そのまんまな作品なんて作ってませんよね。
アニメというフォーマットにて、原作を忠実に「再現」した作品と、ただ単に「転写」した作品とをごっちゃにして語るなんて失礼な話です。
「表現力」という点において、この2つには天地の差があります。
なので間違いなく、石原監督以下スタッフの皆様は作家性がある、クリエイターなのだという事です。
2007/12/16(日) 00:28:58 | URL | 東西南北 #7SMSw2C6[ 編集]
作家性の有無は
京都アニメーションは原作に忠実で面白いと思いますし、その面白さは京アニだからこそ感じられるものだと思います。
それに京アニの解りやすい作家性・オリジナリティに関しては『らき☆すた』で十分に示したように思います。

昨今原作を無視したような原作付アニメが多いですが、原作を忠実に再現する難しさも理由のひとつなのではないかとおもいます。
しかしオリジナル展開等で監督・スタッフの意図が全く掴めない内容の作品が多いのも事実です(全てでは無いと思いますが・・・)。
作家性の有無は原作に忠実とかオリジナルとかは関係ないものだと思います。
2007/12/16(日) 01:53:45 | URL | くろす #-[ 編集]
同じ薔薇を見て、
私とあなたの見ている薔薇の色は実は違うのかもしれません。
でも私たちが、その薔薇を美しいと感じることが出来た奇跡をよろこびましょう。
2007/12/16(日) 08:33:19 | URL | 名も無いDancer #DR5k3gzs[ 編集]
まさしくその通りだなぁと思いながら
記事読まさせていただきました。

アニメを見てから原作に興味を持って、実際見て、違う感じを覚えること。
このよく行われている(自分もよく行っている)行為は実際にあり、それを自分も楽しんでいるので「原作忠実は作家性がない」という意見には漠然と「それは違うよなぁ」と思っていたんですが…
思ったこと全て書いてあって…流石てりぃさんですね笑
アニメ→原作 という順序で自分は基本楽しんでいますが、これも受ける印象は
原作→アニメ の人たちとは違うんです。良い印象だけ全て共有できたら、というのはなんとも夢ですね…
その夢を、つまり「他の人がそのアニメに対して思った良い印象」を、全部じゃなくて少しでもいいから叶えたいと思ってるのが、アニメのレビュー見て色々なページまわる人達の行動に繋がっていると思いますわ。(少なくとも自分はそうなのでw)
というわけで、これからもレビュ楽しみにしております^^
2007/12/17(月) 00:48:03 | URL | マッサー #-[ 編集]
何気に動いて原作でもそうだったっけかな、と思わせるように自然に動くキャラ達。
これがあるからこそ声優陣も声を乗せて新たな表情を見ることが出来るのだと思うし
忠実ってだけでなく、アニメになったことで生まれた個性もあったと思いますし。

原作でも確かにしていたはずだけど脳内再現といいますか・・・そういったキャラがしていた仕草が思い浮かぶ原作の良さを最大限アニメーションで描こうとしているのが忠実、と評されるんじゃないかなと思ったりもします。
2007/12/17(月) 01:25:02 | URL | tia #-[ 編集]
見えてくる幸せ
>東西南北さん

>原作読むだけでいいのは「原作に忠実」な作品じゃなく、
>「原作そのまんま」な作品だよ。

うはははは。まさしくその通りですね。でも、そう言われても、人によっては「原作に忠実な作品もそのまんまな作品も同じじゃねぇか」という返答が帰って来かねないという罠。

いやはや、人と人とが理解し合うということは、かくも難しいことなのです(大仰すぎ?)。

>なので間違いなく、石原監督以下スタッフの皆様は作家性がある、
>クリエイターなのだという事です。

あーあー、「クリエーター」って言葉、どっかで使うべきでしたなー。煮詰まってくると、そういう「自分の中にあるはずの語彙」さえも使えなくなっちゃうから困ります。それはともかく、上記の点は仰る通りですね。


>くろすさん

>京都アニメーションは原作に忠実で面白いと思いますし、
>その面白さは京アニだからこそ感じられるものだと思います。

以前、何かのレビューで私も書いたことがありますが(Kanonの中盤ぐらい、でしたか)、京都アニメーションは「原作通りに作るからスゴイ」のではなくて、「原作通りの展開にしているはずなのに、原作プレイヤーさえも引き込んでしまう作りをしてくるからスゴイ」んだろうなと。くろすさんの言われることとも重なりますよね。

>京アニの解りやすい作家性・オリジナリティに関しては
>『らき☆すた』で十分に示したように思います。

結局原作に手を出していない私なのですが、原作からの逸脱度合いについては当時からよく語られていましたものね。

>作家性の有無は原作に忠実とかオリジナルとかは関係ないものだと思います。

これまた仰る通りです。原作から離れたオリジナル色を出すことだけが「作家性」なのではないですね。無論、そういう点にこそ面白さを感じる人のことを否定するわけではないのですが、原作の雰囲気を再現するワザの中にも、ちゃんと「作家性」というものはあるんですよね。


>名も無いDancerさん

>同じ薔薇を見て、

この薔薇の例え、とても素敵ですね。

こないだ、今年の春に録画したまま放ってあった「あらしのよるに」を娘が見ていまして、私も何とはなしに眺めていたんですが…ガブとメイの目に見えているものは、実は違うんだろうな、とふっと思ったんですよ。だけど、同じ満月を見て、同じように美しさを愛でていて、同じように相手のことを思っていて。これこそまさしく、喜ぶべき「奇跡」なのでしょうね。


>マッサーさん

>アニメ→原作 という順序で自分は基本楽しんでいますが、
>これも受ける印象は 原作→アニメ の人たちとは違うんです。

これ、興味深いですね。私も、マッサーさんのようなケースがないわけではないんですが…どちらかと言うと、原作→アニメの方が圧倒的に多いです。ええ、積みゲーが近年増えまくりとは言え、一応鍵っ子なもので(四十にして「っ子」とかキモ杉)。

>良い印象だけ全て共有できたら、というのはなんとも夢ですね…

ああ、夢ですねぇ…。あのガブとメイのように。物語の中でしか許されないんでしょうか。いや、きっとそんな事はないですよね?


>tiaさん

>何気に動いて原作でもそうだったっけかな、と思わせる

ありますあります(^^;。私も、原作テキストを検索しながらでないと、とても怖くてレビュー書けないくらいで。あ、いや、私の場合は「忘れっぽい」というのもあるんですけどね(爆)。

>アニメになったことで生まれた個性もあったと思いますし。

この「生まれた個性」というのが、あまりにも「自然」なんですよねぇ。不思議なくらい。だからこそ、こういう話が出るのでしょうけど。それをマイナス方向に評価されてしまうのは、ファンとしてもちょっと悔しいですね。いかんいかん、前向き前向き。
2007/12/17(月) 22:42:26 | URL | てりぃ #O8jQI81I[ 編集]
「作家性?ありゃあ甘さがくどくて、あきまへん」「って、そりゃサッカリンでんがな、ズビシ!」
てな感じで、ごぶさたしております。
忘れ去られた頃にやってくる六連星であります。

でも、いつもブログは拝見させていただいております。コメントもつけたいなと思うのですが最近年のせいかどうも文章のまとまりがうかばなくていけません。てりぃさんの構成力が羨ましい。

いやいやそれにしても昨今、右を見ても左を見ても「作家性、作家性」と喧しきかぎりでございますな。拙などから見れば一から創り出した作品でもないものに「作家性」を求める発想が良くわかりません。
他人の褌でオナニーをしろと強要でもするのでしょうかね?

まあ、それはともかく拙は原作付きで作家性の発露を見たのは寡聞にして「カリオストロの城」と「うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー」しか知りません。それ以外は残念ながら原作を台無しにしたような作品しか観た事ないのですよ。

それですら、例えば「うる星やつら2」は拙にとって「たまらない」作品でしたが原作者である高橋留美子氏にとっては別の意味で「たまらない」作品であったりしたわけです。

ことほどさように「作家性」ってのは諸刃の刃のようなものなのです。いったい「作家性」などという人は「どういう結果」を求めて「作家性」などといってるんでしょうか?拙にはさっぱり理解できません。

拙が京アニの作品を観ているのは、例えば今回のクラナドでいえば、まず拙が原作を好きであるということ。それが一つ。
そして京アニが紡ぎだす「クラナド」に原作に対する、とても深い愛を感じるからです。

拙はとても、てりぃさんのように腑分けをするようには上手く分析できないので莫とした表現しか出来ませんが、どんなに見た目が良くても「仏作って魂入れず」な作品ならきっと、こんなにも毎週楽しみにしては観てないと思うのですよ。

どんなものでも「愛のこもってるもの」は心地よいものです。「それでいいじゃない」と拙などは思うしだいなのですけど、どうでしょうか?

もちろん、このブログを見てるのも、てりぃさんの名雪さんにたいする腐海のように深い(あ、シャレですってば洒落w)愛があればこそですよ。
2007/12/18(火) 01:24:33 | URL | 六連星 #-[ 編集]
ズビシ!てw
>六連星さん

噺家さんのような語り口と流れで統一されたコメントに、深く感じ入りました。グッジョブでございます。

>忘れ去られた頃にやってくる六連星であります。

忘れてませんて。どうしてこう、ウチのコメンテイターさんたちは控えめと言うか謙虚と言うか。

>とても深い愛を感じるからです。

この「愛」ってぇのが「水もの」なんでしょうなぁ。見えるという人もいれば見えねぇという人もいる。でも、こんだけ「微に入り細を穿つ」ような作りをしているものに対して、「仏作って魂入れず」と断じてくる人こそ、人から「魂入れて見てない」と非難される可能性にどうして気付かないのかしら、と。

結局、多くの人が「これは良い」というものには、相応の理由があるもんなのだと思います。それを「大衆はこれだから」という風に、自分(&自分と同じ考えの人)だけを別格に位置づけるのはさぞかし楽で気持ちいいでしょうが、あ、言葉に毒が混じってきたからこの辺でやめておきます(笑)。

>てりぃさんの名雪さんにたいする腐海のように深い

誰がウマイこと言えとwww

我が愛は我流!我流故に誰にも読めん!…いやいや、お褒め頂き光栄です(爆)。
2007/12/20(木) 04:06:41 | URL | てりぃ #O8jQI81I[ 編集]
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2007/12/16(日) 04:41:04 | りとまて
 てりぃさん、こんばんは。  ご無沙汰しています。  たいへんタイミングが良かったので、久々にTBさせて頂きました。  ですがてりぃさんは、21日(金曜日)の01:29まで、このエントリには触れないで下さい。(^^)  第9回をご覧になった後で、お読み頂ければと...
2007/12/18(火) 00:45:32 | 『遍在 -omnipresence-』