Old Dancer's BLOG
ここはてりぃが、趣味の共通する方々との得がたいつながりのために、自分の趣味に関係する諸々のことを、壊れながら書きつづるブログです。
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「感じる」ということ
 感想は人により千差万別。従って当然レビューも千差万別。9999人が絶賛するものであっても、1人は最悪と評するかも知れません。それは、「どちらが正しくてどちらが間違っている」ということではなくて、どちらも正しい一個の感想なのだと思います。

 今年は、私も全く予想していなかった「ハルヒ旋風」が吹き荒れました。その波は未だ留まることを知らず、来年後半とも噂されている次期シリーズに向けてこのまま突き進むかの勢いです。ですが、この作品に対する評価が良いものばかりかと言えばそんなことは決してなく、少なくない「マイナス評価の声」も確かに存在するのです。

 「否定の声」も、是とすべき、と思います。一方で、「否定の声」に時折顕れている理不尽な色彩も、正直気にはなります。同じ「否定的な見解」にも、納得できるものとそうでないものが存在するのは何故なのか。私自身がどうしても客観的になりきれないこの問題に、今日はちょっとだけ、今書ける範囲のことを書いてみたいと思います。
【第一:印象】
 「涼宮ハルヒの『ライブアライブ』に出てくるバンド名『ENOZ』は、現実に一世を風靡したユニット『ZONE』のアナグラムである」ということを、私が知らなかったとしましょう。しかしそのことで、私の「涼宮ハルヒの『ライブアライブ』」に対する感想が変化するかと言えば、多分全く変化しないと思います。別な話で上記の命題を、「『涼宮ハルヒの憂鬱VI』で印象的に用いられているクラシック曲は、グスタフ・マーラーの交響曲第8番、通称『千人の交響曲』の第一楽章である」ということに置き換えてもいいです。同じく、それを知っている・いないに拘わらず、私の「涼宮ハルヒの憂鬱VI」に対する感想は全く変化しないはずです。

 個々のネタを構成するもの、それを看破する知識とは、そういうものです。あくまでそれらは、補完的な役割しかない。「ライブアライブ」について言うなら、あの物語を構成する主人公たち(主な視点をハルヒに置くか、その他のキャラクターに置くかという違いはあるでしょうが)の行動に対して、何らかの共感を覚えられるかどうかということが「本筋」なのであって、ディテイルを積み重ねることがその本筋をより強固なものにしているという側面はあるにしろ、肝心の「本筋」に共感できさえすれば、その感想は「賛美」側に触れるわけですね。逆に、その「本筋」に一切共感できない人がその物語を楽しめるはずはありません。

 「本筋と共感できるか否か」は、詰まるところその人が受ける「印象」というものに集約されます。細かい知識が感想の方向性を決めるのではなく、印象が感想の方向性を決めるのです。そして、その人の個性が反映される「印象」は尊重されるべき、というのが私の今時点の気持ちです。


【第二:考える、ということ】
 私が当時見落としたところから。「涼宮ハルヒの『射手座の日』のラストシーン近く、キョンから『お前の好きにしろ』と言われた長門が『たまになら』と応えるシーンにおける、長門の心境を答えよ」という命題があるとしましょう。このカットでは、長門はキョンから視線を逸らし、目を隠した表情として描写されています。これが、楽しげな表情に見えるでしょうか。「目を伏せる」という言葉を引用するまでもなく、「少なくとも楽しげではないな…」と感じさせるのが、この描写の本来の意図ではないかと思われます。このカットには多くのミスリードを誘う罠~脳天気なBGM、「長門が楽しそうに見えた」というキョンのモノローグなど~が仕込まれているため、そう気付きにくくなっているのが悩ましいところで、私自身も他の方のレビューを読んで気付かされ、後で地団駄を踏んだものです。

 こうした部分に気付くには、単なる知識の寄せ集めではない、別な何かが求められるように思うのです。「経験値」と言ってしまえばそれまでなので、ちょっと卑怯な結論だな、と思うんですが…なんと表現すればいいのでしょうか、その人がそれまで出会ってきたものに仕込まれた「良き部分」と、その「良き部分」に肉薄するためにその人がどのぐらい考えを巡らせたか、その二点に比例するような気がするんですね。

 「良いもの」に触れた時にも、逆に「あまり良くないもの」に触れた時にも、「良い」「あまり良くない」いう印象を私たちは受けます。個々に異なるその印象が尊重されるべきものではないか、とは先に書いた通りです。ですが、「おもすれー!いやー面白かった」で済ましたり、「ナンだこれ、つまんねー!」だけで済ましてしまえば、そこには進歩はありません。面白いならその理由を、つまらなかったらその訳を、自分なりに考えてみることで、「自分の好み」「傾向」がよくわかるようになるはず。また、「はー、なるほど、この描写はこういうモノを狙っていたのか!」という発見があったりすれば、それは間違いなく自分にとっての経験値として蓄積されていきます。

 「考える」ということ。それは、単純なようでいてその後の自分を全く異なる世界に導いてくれる重要な鍵です。行うことは面倒に違いないけれど、地道に唱えることでとてつもない効果を発揮してくれる古の呪文です。個々の「印象」が尊重されるべきだとしても、考えることを放棄してしまった「印象」は、他者に対して何ら説得力を持ちません。独り言で終わらせるつもりならそれでもオッケーなのだと思いますが、人に読んでもらいたい、出来れば反応して欲しい、と思うならば、やはり「考える」という作業は必要になってくるのではないでしょうか。


【第三:感性の正体】
 「感性を磨く」、と俗に言います。しかし、どうやって磨けばいいのかと言えば、その答えを教えてくれる人はいません。それは何故か。結局、「自分の感性は、自分なりに磨く方法を見つけていくしかない」からなのだと私は考えます。

 色々な分野において、巨匠と呼ばれる達人たちが世の中には存在します。しかし、その人たちは「誰かの技をそっくり受け継いだ」わけではなく、「自分にしかなし得ない優れたもの」を実現したからこそ巨匠と呼ばれるに至っているのではないでしょうか。そのためのマニュアルなど、あろうはずもありません。師事した先生から学びつつも、「これだ!」と思える自分だけの真実を求め続ける弛まぬ努力の上にこそ、彼らの評価が成り立っています。

 「感性」もこれと同じです。個々に持っている「印象」というものを、自分しか持ち得ない「感性」にまで磨き上げるには、「考える」という弛まぬ努力が必要なはず。その過程を経たものは、読み手の持つ印象と正反対の内容であっても眩しいほどに光り輝き、納得させる内容を誇ります。実際、これまでのたくさんの交流の中から、私はそういう素晴らしい記事に何度も出会ってきました。たかがブログ、なのかも知れませんが、私はそこにはこだわりたいのですよ。だから、これからも私は一層考え続けたいと思います。私しか書けない眩しい記事を書くこと、それが私の永遠の目標なのですから。
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